if… もし、あの時
歴史にIFは無い!と良く言われます。
個人においても同じだと思います。浅見帆帆子さんというスピリチュアル・エッセイストがおられます。彼女は、著書の中で、主に「人」に関して触れた箇所で
「その時、Aを選ぼうと、Bを選ぼうと、自分のレベルに応じた相手でしかない。だから、選択は大した問題では無い!」
と明記されています。
随分、はっきり言い切るなぁと、当初思いました。ところが、なるほど、と考えざるを得ないことが多くありました。
つまり、自分のレベルに応じた人・物・事にしか、リンクしないわけです。
「あの時、こう言えば」
「あの時、こうしたら」
そう後悔するのは、私だけではないと思います。
作家のO・ヘンリー氏の「3つの道」でしたか、興味深い短編小説があります。
3つに分かれた道を前にして、男は、覚悟を決めて進む道を選びます。あるジャンルで、大成功を収めた男ですが、キッチンでカミさんとケンカをして、銃で撃ち殺される。ふと、気がつくと、また3つの元の道の前にいる。当然、違う道を選び、懸命に努力した結果、あるジャンルで大成功を収める。しかし、ある日カミさんとキッチンでケンカをして、銃で撃ち殺される。気がつくと、〜といった感じで、繰り返します。
道・ジャンルは違えど本質的な結果は変わらない展開を見せます。正にAを選ぶかBを選ぶかの形態の問題ではなく、本質の問題に帰結します。
自分のレベル・性質・方向性を変えない限り、己が行く末は変わらないわけです。
疎遠になった、知人・友人に、久しぶりに連絡をしたことありませんか?
でも、何となく以前とは違うし、また自然に遠のいていきませんでしたか?
全ての人にあてはまるわけでもなく、温故知新もあります。が、終わるべくして終わったものは、燃えカスにすぎないのです。
スピルバーグ監督の代表作のひとつに、ジュラシック・パークという、恐竜をテーマにした作品があります。有名ですね。
記念すべき、第1作の時、映画の中で、恐竜を金と科学で甦らせた資産家に対し、博士が異論を唱えます。
「終わるべくして終わった時代の者達を、無理に甦らせるのは、良くない」
自然の摂理に反すると、クレームをつけます。この博士の言う通りですね。
人も、事物も、仕事も、勝負事も、ペットも、何某か、無念は残るものです。でも、消え去った泡と同じです。しかし、無になったのではなく、空になったのです。単なる、思い出とかではないです。過ぎ去った人・事物は、恐竜と同じく、かつて、実在し、今は己が中に、実存しているのですから。
思い出は、どういうわけか、美化されていきます。
それでも、
「あの時、こうしたら」
「あの時、こう言えば」
と本気で思うのなら、無念を未来に注ぎ込むのが、上等です。真に美化されるべきは、過去ではなく、未来だと信じます。
寒い中、夜中に雨が降ったりすると、しんみりするものですわ^_^